はじめに
僕が最初にFORTRANでシュミレーションプログラムを作った頃は、まだフロッピーディスクなどは無く、記憶媒体はパンチカードかパンチテープ(紙テープ)で、パソコンは存在せず、大型コンピュータの使用料は非常に高価なものでした。当時は個人が持つパーソナルコンピュータなどは想像外でした。
1980年代になってパソコンが手の届く価格で普及、僕は1983年 富士通FM-7を、翌年にNEC PC-8001を購入して趣味でプログラム作成を始めました。ゲームなどが中心で、寝不足になるほど夢中でした。
その後、仕事の効率化をのためにプログラムを組むうち、これを本業としたいという気持ちが強くなり1994年にKSOFTを開業しました。
1994年 KSOFTを開業する。
1997年 カーディテーリング&メンテナンスショー(インテックス大阪)にて
「CarBeautySystem」を出展する。
2001年 関西設計・製造ソリューション展(インテックス大阪)にて
製造業務管理システム「社長秘書」を出展する。
2007年 自動車整備振興会明石にて、「自動車販売整備07」が推奨を受ける
2008年 国際フロンティア産業メッセ2008(神戸国際展示場)にて
製造業務管理システム「社長秘書」を出展する。
今までに手がけた業種
自動車販売店、自動車整備、カーディテーリング、運送業、呉服販売、呉服卸、ブティック、タイヤ販売、警備保障人材派遣、設計事務所、食材販売、食材卸、レストラン、通信販売、鉄工所、機械組立、学習塾、建築、建築関連設備業、印刷業、美容院、エステサロン
ここでまったく関係ない話ですが、
週刊現代、1995年12月2日号の浅田次郎の連載エッセイを紹介します。
新聞や雑誌の切り抜きをスクラップしてるのですが、このエッセイは何度も涙しています。
沖縄の米軍兵が少女に乱暴しても、治外法権で泣き寝入りしかできなかった時代です。
また、日米政府間では、沖縄米軍基地の再契約を前にした頃でした。
週刊現代 浅田次郎氏の連載エッセイ第59回「御高配について」
昭和20年6月6日夜、大本営の海軍次官あてに一通の電報が届いた。
激戦の続く沖縄で孤立無援の小禄地区(現在の那覇空港周辺)を守備する、海軍根拠地隊司令官・大田実少将からの緊急電である。
以下長文に付き一部を抜粋する
左ノ電文ヲ次官ニ御通報方取計得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルヘキモ 県民ニハ既ニ通信力ナク第三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職 県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非サレドモ現状ヲ看過スルニ忍ヒス 之ニ代ケテ緊急御通知申シ上ク…
文面はいきなり、「沖縄県民ノ実情」から始まる。
陸軍主力も行政府ももはや通信の機能を持たないであろうから、自分がかわって報告する、というのである。以下、いわゆる「訣別電」の成句である勇ましい戦闘経過や将兵の敢闘ぶりについて、この電文は一行一句触れない。ただ続々と、沖縄県民が祖国の防衛に身を捧げ、家屋財産を失い、大変な辛酸をなめたと書き綴る。
・・・・若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモニアリ 所詮敵来リナハ老人子供ハ殺サレルヘク 婦人ハ後方ニ運ヒ去ラレテ毒牙ニ供セラルヘシトテ 親子別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ…・
男子は老人から少年まで軍と供に戦い、若い女性は斬込隊を志願し、看護婦となった女学生は軍が残置した重傷者を介抱した。しかもこうした県民の活躍と困難は米軍上陸のはるか以前、日本軍守備隊が進駐してから終始一貫して続けられてきたものである、と大田少将は述べる。依然として作戦経過や戦闘の美辞麗句は一言も記されない。
そして、本戦闘はすでに末期であり、沖縄は一木一草もない焦土と化してしまったと述べた後で、大田海軍将校は万感を込めて、電文をこう締めくくる
…・沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ラレンコトヲ…・
電文には「天皇陛下万歳」も「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」もない。
自分が指揮官としてどういう作戦をとったのかも、陸に上がった一万の部下たちが、どのようにして、圧倒的な米軍を相手に戦ったのかも、全く記されてはいない。
ただひたすら、沖縄の挨拶と県民の労苦を述べ、軍はそれを顧みる余裕がなかった、と悔いる。沖縄県民はこのように戦ったのだから、後世決しておろそかにはせず、格別の処遇をしてほしい…大田少将はこの電報を玉砕の訣別電として、6月13日豊見城村の司令部壕で自決した。陸軍の主力が牛島司令官の自決によって組織的戦闘を終えたのは、その6日後のことであった。
沖縄戦は本土決戦の時間を一刻でも引き延ばすための、いわば捨て石の戦いであった。だから軍は、それまでの島嶼戦の定石であった水際での迎撃戦法を用いず、米軍を無血上陸させたのち縦深陣地での防御戦と狙撃や斬込みを主としたゲリラ戦に持ちこんだ。
折から雨期と重なり、彼我入り乱れた混戦となったこの戦いは戦略的な使命こそ十分に果たしたものの、すべての県民を巻き込んでしまったのである。
勝利の予定はなく、何日持ちこたえるかという戦いであった。軍と県民とはこの絶望的な戦いを90日にわたって戦った。
この戦闘にあたって米軍は陸軍と海兵隊の最精鋭七個師団、18万3千を投入し、後方支援部隊を含めればその総数は54万8千にのぼる。史上最大の作戦である。
これを迎え撃つ日本軍は、牛島満中将摩下の第32軍2個師団半、しかもその装備も練度もおよそ精強とは言いがたかった。援護といえば、九州と台湾から飛来する特攻機のみであった。
3ヶ月におよぶ戦闘の結果、122,228名の沖縄県民と、65,908名の県外出身日本兵が死んだ。この数字は沖縄県援護課資料によるが、むろん正確ではあるまい。
米軍上陸前の空爆や疎開途上の艦船沈没による犠牲、飢餓、戦病死等を合わせれば、県民の犠牲者は15万人とも20万人ともいわれ、この数字は当時の県民人口の3分の1を上回る。沖縄の戦闘とは実にそういうものであった。
小禄の海軍根拠地隊司令官・大田実少将は、陣地構築にあたって荒らされていくサトウキビ畑を歩き、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、緊急事態をどうかご理解ください。」と県民に詫びつづけたという。そうして県民の実情を余すところなく見つめつづけた結果、彼は「天皇陛下万歳」も「皇国ノ弥栄」も「神州ノ不滅」もない訣別の電報を、大本営に向けて打電したのである。
ところで、大田海軍少将が死に臨んでただひとつ国家に願った「特別の御高配」は、その後どうなったのであろうか。「後世」とは、戦いがすんで平和が来たら、というほどの謂である。少なくとも、遅れ馳せながら本土復帰を果たし、海洋博のお祭り騒ぎを挙行することが「特別の御高配」ではあるまい。それどころか不平等条約の許に、夥しい異国の敵と涯てもない進駐基地を背負われ、騒音に悩まされ暴行を受けつづけてきたのである。本土の防波堤として斯く戦い、その3分の1を失った沖縄県民が、である.50年間、県民はこの不条理を耐え忍んだ。そして一人の少女の勇気によって、問題は提起されたのである。言うに尽くせぬ怒りを携えて上京した県知事を、首相と閣僚はまるで腫れ物に触るような微笑をもって迎えた。何ら合理的な回答も与えはしなかった。むしろ、黙殺に近い。
村山首相はおそらく、軍人としてあの戦いを戦った最後の総理大臣となるであろう。もしかしたら彼は、何はさておきこの問題を解決するために政権を執ったのではないかと私は思う。それが天命であると思う。
50年前の沖縄で20万の人が死ななければ、代わりに20万人の誰かが死んだのだという明らかな予測を、我々は肝に銘じなければならない。だから我々は人間たる信義において、沖縄県民の納得する回答を用意しなければならないと思う。その結果どのような国際的摩擦が生じようと、経済的な打撃を蒙ろうと、我々は甘んじて受けなければならない。
日本国民の多くが、このたびの事件をまるで他国の災厄のように感ずるのは、半世紀の施政者が沖縄県民の正当な怒りをことごとく黙殺し続けてきた結果である。沖縄戦を外地の戦いと認識しつづけてきた結果なのである。
大田海軍少将が沖縄県民の敢闘ぶりだけを打電して小禄の洞窟に命を絶ったそのころ、摩文仁の海岸をさまようひとりの少年がいた。奇しくも少将と同じ姓を持つ鉄血勤皇隊員である。
ただひとり生き残った少年は、友人たちの血で染まった海に、あてもなく泳ぎ出した。彼は後にこう述懐する。「何時間か経って目覚めると、渚に打ち上げられていた。お母さん と呼んだら涙が流れた。涙はほほを伝って口に入った。そのしょっぱさを噛み締めながら、岩の上に指で 敗戦 と書いた」、と。
50年ののち、沖縄県知事となって国家の不実に立ち向かうことになった大田昌秀氏は、公人としての立場上こうした体験はもう語るまい。だが我々は、その穏やかな怒りに鎧われた言い尽くせない真実を、すべて知らなければならない。摩文仁の海に血も涙も流し尽くしてしまった少年の体には、鉄の血が流れている。
沖縄県民は斯く戦い、そして50年間、斯く戦ってきたのである。